2012年4月23日作成
 2017年2月22日 遠野市にお住まいの shaw 様から 画像の著作権についてのご指摘をいただきました。
ご迷惑をおかけした事をお詫びするとともにページを修正いたしました。 

 このページは、「秋水プロジェクト」の姉妹ホームページです。『秋水(しゅうすい)』とは、1945(昭和20)年7月7日、横須賀市夏島の海軍航空隊追浜陸上飛行場で試作第一号機の試験飛行が行われた、ロケットを推進力に用いた、我が国初のロケット局地(迎撃用)戦闘機です。秋水プロジェクトのホームページへは左の秋水復元機の写真をクリックしてください。

 【はじめに】

 横浜市金沢区富岡総合公園一帯に、今も戦時中の横浜航空隊(浜空)の遺構や建物の一部をみることが出来ます。このページは「秋水プロジェクト」の関連リンクとして、当時の横浜航空隊基地の様子や、現在も神奈川県警第一機動隊敷地内に残る大型飛行艇格納庫の様子などを記録したものです。
 
 なお、本ページ作成にあたり資料提供やご助言など多大なご協力をいただいた、
磯子区郷土研究ネットワーク代表 葛城峻様に感謝申し上げます。また、本ページ内の文書画像などの転載・加工についてはご遠慮いただきますようお願いいたします。

【リンク目次】 クリックで該当する説明文に移動します。

海軍横浜航空隊(八〇一航空隊)とは
当時と基地の様子と現在の比較
現存する大型飛行艇格納庫と当時の施設跡
九七式大型飛行艇と二式大型飛行艇
現代に活きる飛行艇技術(新明和工業PS/USシリーズ)
浜空神社について
富岡総合公園一帯に点在する当時の遺構
公園内に残る横須賀軍港水道関連の遺構
富岡トンネルの悲劇 米軍機空襲による住民殺傷
10 戦後 公園入り口付近にあった二代目湘南富岡駅 (駐留米陸軍時代)


1 【海軍横浜航空隊とは】

 海軍横浜航空隊(浜空)は、昭和12年3月、現在の横浜市金沢区富岡付近の鴻ノ巣鼻〜クツモ岬周辺が埋め立てられ、当時横須賀市追浜(現在の浦郷町・夏島町)に展開していた横須賀海軍航空隊から分離して開設された日本初の飛行艇専用基地でした。同時に水上飛行艇訓練基地でもありました。後の昭和17年11月1日には八〇一航空隊(以下算用数字で「801航空隊」と記します)と改名され、第25航空戦隊に所属しました。昭和11年に完成した川西航空機の「九七式大型飛行艇」が配備され、長距離航続性能を活かして北はアリューシャン列島から南はガダルカナルまで偵察や補給に活躍しました。17年2月には、川西航空機の二式大型飛行艇「二式大艇」が投入されました。隊員約一千名、大型飛行艇二十四機を有する海軍最大の飛行艇専門航空隊として、その威容を誇っていました。


(左) 昭和初期埋め立て前の海図と (右) 埋め立て後の横浜航空隊基地


上空から撮影した横浜航空隊基地 写真左手が海軍横須賀航空隊追浜飛行場方面

 また当時、横浜航空隊と同じく根岸湾内(現在のJR根岸駅付近)には「根岸飛行場」が開設されており、民間航空会社として九七式大艇を使用し南洋方面への定期運輸と貨客航路開拓を担っていた「大日本航空」の存在も見落とすことが出来ません。この地が水上航空発祥の地であり発展の源だったことは疑う余地がありません。


(左) 横浜航空隊と 大日本航空根岸飛行場との位置関係 (右) 根岸飛行場の施設配置概略

 昭和16年、(現在の)JR根岸線の根岸駅付近の海岸線に飛行艇専用の民間空港があり、赤道を越え南洋諸島への定期便が就航していたことはあまり知られていません。同昭和16年に東宝映画株式会社が「横須賀鎮守府」の検閲を受け配給した『南海の花束』という映画は、この根岸空港を拠点としていた大日本航空という民間会社をモデルとして、そこにいる人々の人間関係の葛藤や業務遂行に向けた困難と成功の喜びを描いています。円谷英二氏が「特殊撮影技術」という分野を築いた作品としても有名です。東宝株式会社よりDVDが復刻発売されています。

2 【当時の基地の様子と現在の比較】

 横浜航空隊の基地は、現在の富岡総合公園、神奈川県警第一機動隊、富岡住宅、日本飛行機株式会社付近一帯に展開し、「指揮所」をはじめ、巨大な飛行艇を格納する「格納庫」、着水した飛行艇を陸に揚げる「滑走台」、「兵舎」、「魚雷調整所」等が広範囲に設置されていました。
 終戦と同時に、駐留米軍(陸軍)がこの地を接収し、通信部隊施設となりました。朝鮮戦争やベトナム戦争では資材場として使われるようになり「富岡倉庫地区」と呼ばれましたが、一部の(海上ブイを含む)岸壁部分と岸壁に近い資材場をのぞき、1975年に富岡倉庫地区の大半が返還され「富岡総合公園」として開園しました。そして2009年には全面返還が完了しました。


3【現存する大型飛行艇格納庫と当時の施設跡】

 神奈川県警第一機動隊(横浜市金沢区富岡東1丁目)の敷地は、横浜海軍航空隊の一部であり、現在も敷地内には、巨大な第三格納庫が当時の構造を維持しながら、機動隊員と周辺市民の理解の下、現役の倉庫として使用されています。また敷地内には当時の遺構と思われるいくつかの構造物を確認できます

 九七大型飛行艇や二式大艇を格納した第三格納庫は、間口170m×奥行70mと巨大で、ワールドカップ規格のサッカーグラウンド(105×68m)がすっぽり入る広さです。内部は鉄骨トラス造と大きなスパンの空間を作るための鉄骨柱を基礎部分でピン支持として熱による変形や揺れを吸収する構造になっています。施工は地元の馬淵建設で、同社は横須賀鎮守府庁舎をはじめ海軍関係各種施設の建設にあたっていました。
 米陸軍に接収された際には、重車両関係の修理格納部門(shop)として使用されていました。現在外壁は修理され、きれいな外観となっています。残存する旧海軍の飛行艇格納庫としては全国唯一と考えられ、トップクラスの戦時産業遺産に数えられます。

格納庫の大きな扉を引き込むラック サッカーグランドが入る内部 巨大な飛行艇の格納庫だった
広大スパンを支える鉄骨柱とピン支持 米軍使用時の落書きも
大空間を構成するトラスとピン支持柱 神奈川県警第1機動隊正門 右手が第三格納庫

その他 機動隊敷地内の様々な遺構
 その他にも、富岡総合公園の方向に伸びる軌道跡 (爆薬などの危険物は防空壕内に貯蔵する) や船艇の繋留に用いられたと考えられる舫い柱 (「ボラード」とも「ダビッド」とも呼ぶ) などいくつかの遺構が確認できる貴重な敷地です。

舫い(もやい)どり ボラードなどと呼ばれる (旧滑走台付近) 十字型の鉄骨脚柱が切断されていた (旧滑走台付近)
同上の舫いどり ダビッドと呼ばれる (旧滑走台付近) 海軍の「錨マーク」のついた鋳造製点検蓋
旧第一格納庫付近から富岡総合公園に延びる線路 航空隊開隊当時からあると言われているヒマラヤ杉

4 【九七式飛行艇と二式大型飛行艇(二式大艇)】 

九七式飛行艇
 昭和9年日本海軍は将来、広大な太平洋海域を哨戒偵察できる長距離飛行艇が必要との理由から、日本初の四発大型飛行艇の自力開発を決定しました。海軍の命令を受けた川西航空機は、主翼を艇体(機体主部)上に支柱を用いて支える「反片持ち式パラソル翼」の生産モデルを昭和11年夏に完成させ、昭和13年に九七式一号飛行艇として制式採用されました。
 本機の実用性は好評で、5,00kmに及ぶ航続距離は爆撃・雷撃など用兵側の作戦立案に様々な可能性を与えました。しかし、いざ南方戦前に実戦投入されると速度が遅いために対空放火の犠牲になってしまい、以後、後方に退き、補給や連絡に用いられました。しかし、九七式大艇の設計経験は新たな飛行艇の生産に大いに貢献し、名機二式大艇の登場につながりました。


参考展示プラモデル 第三格納庫の合成写真 HASEGAWA NP6 1/72

二式大型飛行艇 (二式大艇)
 二式大艇は陸上機をも凌ぐ世界最高水準のレシプロ飛行艇として、今日でも高い評価を得ており、戦後の救難・哨戒活動に活躍している新明和工業株式会社の「PS/US」シリーズ機への流れを築いた名機です。
 昭和13年海軍は、出来る限り遠方洋上からの索敵から攻撃に転じることが可能な大型四発哨戒爆撃機(一三試大型飛行艇)の開発を川西航空機に命じました。
最高速度296km/h以上、航続距離7,400km(偵察) 6,500km(攻撃)、四発中被弾し二発になっても水平飛行が可能なことなど、過酷な性能要求でしたが、川西航空機は技師を大量動員し、機体の小型化による空中性能の向上に成功しました。1号機は昭和15年12月29日完成、約一年後の昭和17年には二式飛行艇として制式採用されました。


参考展示プラモデル 第三格納庫の合成写真 HASEGAWA NP5 1/72

 大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれていました。制式採用直後の昭和17年3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠湾を再空襲しましたが戦果は挙がりませんでした。
 昭和19年以降は、すでに有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍多発機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だという評価を受けており、「空の戦艦」などとも呼ばれていました。


二式大艇初期一二型 (H8K2) 横須賀鎮守府所属 「敷島」

 輸送機改造型「晴空」等を含めて全タイプ合計167機以上生産された内、終戦間際には作戦可能機体は七尾基地の3機のみでした。内1機は詫間基地への移動中に不時着して島根県中海に海没処理されました。終戦を迎え8月22日の時点で詫間基地に残されていたのは3機。昭和20年11月11日、その中の1機(第426号機)が、終戦当時すでに米国艦艇で埋め尽くされた横浜根岸湾に着水しました。これの飛来機が、20年アメリカに引き取られて性能確認試験が実施され、圧倒的な高性能を発揮してアメリカ側は最優秀の評価を与えました。その後、この二式大艇の機体はノーフォーク海軍基地で保管された後日本に返還され、昭和54年から東京の海の博物館で展示された後、現在は鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地に教材として展示されています。

輸送機に特化して改造された「晴空」
機体内を上下に分け最大64名を収容できる
海上自衛隊鹿屋航空基地に展示されている二式大艇

九七式飛行艇と二式大艇の諸元比較

諸   元 九七式大型飛行艇 二式大型飛行艇(二式大艇)
試製要求
コードネーム
 九試大型飛行艇
 Kawanishi H6K5(連合軍呼称"MAVIS")
 一三試大型飛行艇
 Kawanishi H8K(連合軍呼称"EMILY")
制 式 年  昭和13(1938)年1月8日  昭和17(1942)年2月5日
全  幅  40.00 m  38.00 m
全  長  25.60 m  28.13 m
全  高  6.27 m  9.15 m
翼 面 積  170.0 u  160.0 u
全 備 重 量  17,500 kg  24,500 kg
乗  員  9名  10〜13名
発 動 機  三菱金星五三型 1300馬力×4基  三菱火星22型 1,850馬力×4基
最高速度  385 km/h  470 km/h (22型 5,000m)
航続距離  6,771 km (偵察負荷)  7,153 km (偵察負荷)
武  装 20 mm旋回銃 ×1 / 7.7 mm旋回銃 ×4
航空魚雷 ×2本 または
爆弾 t(60 kg爆弾×12 または250 kg爆弾×4)
武装 20mm旋回銃×1、7.7mm旋回銃×4門
航空魚雷×2 本または
爆弾(60kg爆弾×16または250kg爆弾×8
または800kg爆弾×2)

5 【現代に活きる飛行艇技術(新明和工業PS/USシリーズ)】


プラモデル HASEGAWA K-128 RESCUE BIRD
  飛行艇技術の集大成
    海上自衛隊 PS/USシリーズ 新明和工業株式会社

 かって(旧)川西航空機時代に、九七式飛行艇や二式大艇などの世界的な傑作機を生んだ新明和工業は、海上自衛隊の対潜哨戒や海難救助に威力を発揮する飛行艇「PS−1」を昭和42(1967)年10月29日に初飛行させました。戦後20年を経ての開発は革新的技術を結集させたものでした。それまで波高1mが限界だった離着水を、PS−1飛行艇は四発合計11,400馬力の推進力で、波高3mでも、時速100kmの速度で離水できるSTOL機です。


 新明和工業は、このPS−1を基礎にして救難飛行艇「US−1」を開発しました。
 「US−1(試作機呼称「PS−1改」)」は昭和47(1972)年、防衛庁から「水陸両用救難飛行艇」として計3機の試作機を受注し、昭和49(1974)年に初飛行を行いました。対潜装備の代わりに救難機器を設置し、陸上離着陸能力を持たせました。主脚は陸上離着陸のために、強化・大型化され、胴体側面のバルジに収納されます。

 飛行艇の有利な点としては、洋上での発着が可能なことから、飛行場の無い離島へもアクセスできること、ヘリコプターより長い航続距離と、ヘリや船舶よりもはるかに高速であることが挙げられます。「US−1/2」はこれらの利点を最大限に活用し救難機として世界的に高い評価を受けています。現状では、海上自衛隊向けの機体のため、日本政府の「武器輸出三原則」によって輸出することは不可能ですが、規制が緩和されれば日本が世界に誇る輸出製品となることは間違いありません。

 世界最高性能の救難飛行艇US-2

乗員11人
全長33.25 m
全幅33.15 m
全高10.06 m
最大離着陸重量47.7 t
最大離着水重量43.0 t
エンジン ロールスロイス AE2100J
    ターボプロップ 出力4,591 shp×4
最大速度 約580 km/h
実用上昇限度30,000 ft(約 9,150 m)以上
離水滑走距離280 m
着水滑走距離310 m

6 【浜空神社について】

 京急杉田駅と富岡駅との中間地点、国道16号線の「鳥見塚」バス停から150mほど桜並木を入ると、道の左右に一対の石造りの門柱があります。ここは横浜航空隊の裏門でした。(表玄関のようですが、海軍では海から入る方を正門としていました。) 「浜空神社」はその右手奥に位置しています。昭和12年3月の開隊と同時に伊勢山皇大神宮を勧請した社で、元来は航空隊の守護神である天鳥船(古事記)に由来する『鳥船神社』でしたが、戦没隊員二千柱が祀られてから『浜空神社』と呼ばれるようになりました。境内には神社の由来と、浜空会々員の方達による鎮魂碑があります。平成20年の例祭を機に神社は追浜にある雷神社の境内に移設され、跡地には記念碑が建立されています。現在でも旧801航空隊関係者や遺族の方達、また自衛隊関係の方達により鎮魂碑の前で慰霊祭が行われています。

桜並木の(旧)隊門を過ぎて右手に「浜空神社」がある 遷宮(移築)前の浜空神社
平成20年8月3日、雷神社移築後に建立された「鎮魂の碑」 浜空神社跡の石塔の横に隊員が植樹した桜の由来碑
浜空会の有志の方々による「浜空の碑」 「浜空の碑」の裏面に南方戦線での死闘の様子と平和祈念
京急追浜駅前の雷神社に遷宮(移築)された浜空神社 雷神社内の浜空の社に掲げられた「浜空神社」の文字

浜空神社の由来と「鎮魂の碑」建立に関しては、横浜海軍航空隊浜空会の
「浜空鎮魂の碑除幕式」のホームページに詳細が記録されています。


7 【富岡総合公園一帯に点在する 浜空時代の遺構】

 横浜市金沢区から横須賀市浦郷町に至る海岸線は、大正5(1956)年に海軍航空隊令の制定以来、「横須賀航空隊」「追浜航空隊」「横浜航空隊(801空)」「田浦航空隊」の海軍航空の一大基地として機能してきました。富岡総合公園一帯は、横浜航空隊(801航空隊)の基地として海岸線・丘陵部に様々な施設が展開していました。現在でも当時を物語る遺構が認められます。


↑ 国道16号線 「鳥見塚」バス停からの桜の光景 一帯は横浜海軍航空隊の基地でした。

↑ 石造りの隊門は当時のまま残っていて、横浜海軍航空隊の門標が再現されています。

↑ 駐留米陸軍「富岡倉庫地区」が返還され、一帯は市民のための公園に生まれ変わりました。

↑ 公園敷地内の丘陵部格納庫側に面している斜面には地下壕が点在しています。

↑(左) 頂上付近に至る当時の石段 (右) 波のマークの海軍境界標も当時のままです。


8 【富岡総合公園内に残る横須賀軍港水道関連の遺構】

 横須賀湾から金沢区に至る湾岸一帯は、横須賀海軍工廠・横須賀警備隊・海軍航空技術廠(浦郷本廠/釜利谷支廠)・横須賀航空隊・田浦航空隊・追浜航空隊・海軍横浜航空隊(八〇一空分遣隊)・日本飛行機・石川島航空工業などの海軍関係の施設が集約していた一大基地圏でした。
 当然、工業用水の需要も高く、横須賀市に水道を供給している「有馬水系(当時は軍港水道)」の一部は金沢区の一部や大船燃料廠方面にも供給されていたようです。現在でも東急車輌構内には横須賀市章(旧軍港水道)のついた水道マンホール蓋が残っており、富岡総合公園内の高台には横須賀市水道の揚水/貯水施設と思われる遺構が残っています。
なお、危険箇所もあるので一人での立ち入りは厳禁です。

 横須賀市水道「有馬水系図」
横須賀軍港水道刻印があるマンホール蓋
(旧)釜利谷空技廠支廠敷地内
富岡総合公園の多目的運動広場側の高台に上るとさらに一段高い水道施設への石段が続いている

写真右上の石段を登ると揚水ポンプ室のようなコンクリート小屋と鉄管通気口のような構造物が認められる。 (上) バルブ塔のような柱状物が並ぶ
(下) コンクリートの基礎構造物状のもの


上記通気管状構造物の拡大  上記バルブ塔状構造物の拡大 青の筆記用具との比較

水道施設と思われる遺構の配置は次のようになっています。
(一枚目は公園全体の中の位置図)  (二枚目は水道施設と思われる敷地内の遺構配置)




9 【富岡トンネルの悲劇 米軍機空襲による住民殺傷 】

 昭和5(1930)年、湘南電気鉄道の仮駅として現在の京急富岡駅の位置に、「湘南富岡駅」が開業しました。しかし、たび重なる連合軍の空襲により駅舎などが破壊されて営業休止に追い込まれました。特に昭和20(1945)年6月10日(日曜日)の横浜南部空襲により富岡トンネルの入り口出口両サイドに爆弾が落ちて、トンネル内に避難した多くの住民が犠牲になるという悲劇が起きました。
 この日、空襲を察知した湘南電車(現 京浜急行電鉄)の運転手は、電車を富岡トンネル内に停車させ。乗客63名を線路下の人道トンネルへ避難させました。しかし、爆弾が人道トンネルの出口と入り口に落ちて42〜3名が即死し、重傷者は市内の病院に運ばれました。トンネルから一キロ離れた「慶珊(さん)寺」の境内は、トンネル以外でもこの日空襲で亡くなった人々の遺体であふれました。この空襲で亡くなった人達の数は100人を超え金沢区800年の歴史の中でもっとも悲惨な出来事と記載されています(「横浜金沢の戦跡」−−横浜金沢の戦績を調査する会 を参考)。 慶珊寺にはご住職が建立した戦死者のための慰霊塔があります。

 
写真左 富岡駅下の人道トンネル(左側) ガード(右側)は戦後宅地開発により新設


10 【戦後 公園入り口付近にあった二代目湘南富岡駅 (駐留米陸軍時代) 】

終戦後の昭和22(1947)年3月1日、駐留米陸軍への米軍人や日本人従業員の専用駅として、「二代目湘南富岡駅」が鳥見塚バス停付近に開業しました。なお、現在の京急富岡駅に移設されたのは昭和30(1955)年12月のことでした。


二代目 湘南富岡駅の位置

参考資料: 「京急の駅 今昔 昭和のおもかげ」 JTBキャンブックス


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