秋水発見   秋水は崖下の土に埋もれて発見された
2011年12月3日更新
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 1961(昭和36)年6月、横浜市金沢区昭和町の日本飛行機株式会社(ニッピの愛称)杉田工場(旧富岡工場)の敷地内地中から、『秋水』の機体が発掘されました。そのときの様子が同社の社内報である『日飛ニュース』に、詳しく掲載されているので引用させていただきます。なお、同社は現在も防衛産業の中核を担っており、工場棟の配置などは非公開となっているために、ごく大まかな発見場所の特定にとどめたいと思います。また、この記事を書くにあたり、日本飛行機株式会社のOBの方達にもご協力をいただいたことについて深くお礼申し上げます。
 発見された機体は、一旦自衛隊岐阜基地内で保管され、平成11年9月に三菱重工名古屋航空機製作所が寄贈を受け、小牧南工場で秋水の復元工事が開始されました。これらの経緯については、本ホームページのなかの、「秋水関連書籍案内、三菱重工名航50年史日本飛行機六〇年史および「三菱重工史料室見学記」をご参照ください。

【発見の様子】 1961(昭和36)年6月 日飛ニュース第25号で、当時の厚木杉田作業長の 山崎泰蔵氏は次のように発見時の様子を書いています。
 「杉田製作所の32番建物の裏の塀を移動中、崖下に飛行機の機体らしきものを発見した。種々調査検討の結果、これは戦前の当社が終戦の間際まで国産ジェット戦闘機 (管理者注:この記述は「国産ロケット戦闘機」の誤り) として製作していた「秋水」の胴体であることが判明した。当時は国土防衛機として研究・製作された飛行機ではあったが、その夢も実現せずにそのまま終戦となってしまったものである。(ここまで編集部記述)
 32番工場に機体を繋留する都合上、旧海軍横浜航空隊(浜空)との境界の塀を浜空側に移動せざるを得なくなり、座間の駐留米軍司令部に了解をを得て、6月30日に塀を移動した。ところが略図(下の写真の赤丸部)の箇所から飛行機が一機、土中より顔を出しているのを発見した。機尾を下に垂直に埋まっており、外翼ならびにキャノピーが無い。機体損傷度は案外腐食が軽く、外翼取り付け部他数カ所に破損がある程度で概してよく保っている。
 機体特異の形状からこれは「秋水(J8M1)」であることがわかった。おそらくこれは、終戦直後杉田工場に進駐してきた米軍が工場修理をする際にブルドーザーで崖下にでも押しやったものではないか。いずれにしてもこの「秋水」は当時日飛が生産していた中の一機であることには違いないだろう。
 「秋水」は日本航空界最初のロケット戦闘機として非常に大きな期待をかけられたが、生産がついに間に合わず、とうとう実戦には現れずに終戦を迎えてしまった機体である。」

(写真上) 秋水の推定発見場所() 日本飛行機株式会社と富岡住宅(富岡総合公園沿い)との境界の崖下と推測できる。地図上が「北」
(写真上) 発見後日飛内に保管されている秋水の胴体部 (日本飛行機60年史より)
(写真上) 最上段の写真から南北反転し日飛側から旧横浜航空隊方面を見たとき、
上(南)側の富岡住宅との境界印の崖地付近が秋水の発見場所と推測される。
印の左手は当時は海岸線だった。
(写真上) 富岡住宅側から日本飛行機の看板が見える。推定発見場所は左手茂みの崖下か。

【日飛における生産計画】 昭和19(1944)年、日飛は軍需省から昭和20年2月19日付、昭和20年度上半期487機の秋水生産内示を受けました。これを日飛として検討した結果、日飛生産可能数は306機としましたが軍はこれを承認せずに要求数を満たすよう励ましたのとことです。三菱、日飛以外にも富士飛行機・日産社それぞれ陸海軍から生産示達を受けていて秋水生産計画は膨大なもので、いかに期待が大きかったかを物語っています。一機あたりの工数は11,000でした。生産は空襲の激化、治具の入手困難などで遅れがちとなり、加えて5月29日 B29大編隊の横浜空襲、6月10日 日飛富岡製作所に対する米小型機の空襲により生産は極度に低下しました。
 幸い日飛1号機は後部燃料タンクの損傷のみにて、直ちに横須賀夏島にある横穴に入れ最終ぎ装を進めました。結果として日飛としては1号機は7月に完成。2号〜5号機までは75%〜90%の完成で終戦を迎えました。仮に実戦に投入されたとしても、戦況を覆すことは不可能であったと思われますが、不完全な設計図書の入手からわずか一年で、生産から試験飛行までこぎつけたことは、日飛をはじめ当時の航空技術者達のスキルの高さを証明するものに他ならないと思います。なお、昭和20年7月7日に追浜飛行場で犬塚大尉の搭乗で試験飛行に臨んだのは三菱201号機です。
 (以上は日飛ニュース第26号を参考にしました。)