松本市に疎開した 陸軍秋水エンジン試験場
 (第二陸軍航空技術研究所)
 
2012年3月1日更新

このページは、松本市文書館 (0263-47-0040) のご協力を得て構成したものです。

 全備重量4tの秋水の機体を、1万メートル上空まで3分30秒で打ち上げるロケットエンジンは、ドイツメッサーシュミットMe163に搭載されていたワルターエンジンを日本の技術陣が少ない資料を基に研究し、独自に開発したものです。昭和19年7月29日三菱重工名古屋発動機研究所で開発が開始されてから、わずか1年後の昭和20年6月中旬には全力運転試験にこぎ着けた当時の技術力には敬服します。


秋水ロケットエンジンの参考としたワルターエンジン (大阪市交通科学博物館展示)

 昭和19年7月20日に横須賀の海軍航空技術廠で開かれた秋水開発のための官民合同会議では、当初、機体は海軍で、ロケットエンジンは陸軍でという役割分担ができていましたが、海軍においても厚木飛行場が秋水基地に指定されると、312航空隊(愛称「秋水隊」百里原分遣隊から横須賀航空隊に移行し開隊)と空技廠噴進部が内山村(現神奈川県足柄市山北町付近)に実験場を建設、一方陸軍は松本市内に移り、実態としてロケットエンジンは海軍と陸軍がそれぞれ完成を急いだことになります。 なお、陸軍でのロケットエンジン開発名は「特呂二号(特殊ロケットの意味)」、海軍での開発名は「KR10(クスリロケット)」と呼ばれていました。
 海軍の山北実験場については→こちらのページを参照願います。

 さて、陸軍のロケットエンジン実験場については、『松本市史』と『松商学園九〇年史』の中に記載があります。

【エンジン工場の松本疎開 第二陸軍航空科学研究所】 昭和19年12月、機体1号機は三菱重工名古屋機体製作所(大江工場)により完成しましまが、同月東海地震が発生し、また名古屋地区への空襲があり三菱重工は大きな打撃を受けました。三菱の研究陣は横須賀の海軍航空技術廠に、工場は長野県松本市にそれぞれ移りました。
 その後、陸軍はエンジンを主務とした第二陸軍航空技術研究所が昭和20年に入って松本市の(現)松商学園に疎開しました。これを受けて、三菱重工のエンジン関係者も松本市に疎開しました。これらの一連の移動のためにロケットエンジンの完成は機体の完成から遅れること半年の昭和20年6月となりました。
    以上松本市史より、
藤紀宏氏著 郷土史研究「局地迎撃ロケット戦闘機 通称『秋水』」より抜粋


三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所 史料室内に展示されている秋水用のロケットエンジンの復元モデル


海軍名称「KR10」の諸元

【松本全市に響きわたる噴射音 松商学園九〇年史】 松本市内に疎開してきた三菱重工の研究陣と陸軍の航空技術研究所は現在の松商学園を収用し、校庭でロケットエンジンの実験を行ったことが、松商学園九〇年史通史第四章に書かれています。以下原文をご紹介します。
 『陸軍審査部と三菱重工に収用されていた校内は、革長靴を履き軍刀を腰にした軍人の天下で、(中略)製図の他には学則には見られない英語を習った記憶がある。当時の敵国語を教えるのは勇気が必要であったろうが、ジェントルマン教育の松商の伝統と、公立校にはない自主独立がそうさせたのだろうか。校庭には戦局挽回の最終兵器として期待されていたロケット研究のためのコンクリート造りの建物があって、時折噴射音を響かせ、その音は全市にとどろきわたっていたが、ある日、暗くなってから大勢の軍人が警備する中を、巨大なトレーラーに覆いをかけられた長い円筒状の物体が運び出されていった。「軍事機密であるからおまえ達は目撃したことは絶対に口外してはならない」と将校が厳しい口調で話していたと懐述する者有り。噂では名古屋で飛行実験をし、これが完成すれば敵のB29など問題じゃないとのこと、少国民の胸をおどらせたものであった。後の話では、「秋水」というロケットで実験結果は良かったが、資材も工場もすでに無く、生産されることもなく幻の秘密兵器で終わってしまったとのことである。』


ロケットエンジンの噴射試験が行われた 松商学園正面
甲子園の連続出場記録や各種スポーツなどで有名な私学

JR松本駅と松商学園の位置関係

 こうして、陸海の努力で完成したロケットエンジンは陸路横須賀海軍航空隊追浜飛行場に集められました。そして、松本において燃焼試験に成功した陸軍1号エンジンは、すでに完成していた機体「陸軍用秋水(秋水2号機)」に搭載され、陸軍航空審査部特兵隊用として、柏飛行場に移されました。一方、神奈川県山北の内山村の噴進部で運転試験に成功した海軍1号エンジンは、「海軍用秋水(秋水1号機)」に搭載され、昭和20年7月7日に、犬塚大尉による試験飛行で発進、離陸に成功したものの上昇途中でのエンジン停止事故による帰投に失敗し大尉は殉職しました。また、秋水3号機に搭載される予定だったエンジンは、内山村の海軍噴進部での実験中に爆発事故により破壊されてしまいました。こうして、本土防空の切り札として開発された局地戦闘機「秋水」が実戦に投入されることはなく、終戦を迎えました. 

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