書籍紹介(2011年8月4日更新) 野辺山 海軍航空隊
「予科練の特攻隊基地」
 
株式会社櫟(いちい) 中村勝実氏著 平成7年11月10日発行 定価2,000円 現時点で販売数終了

本書籍からの引用部分は『かっこ内文章』で示しています。引用文および書籍内画像の掲載については、出版社様から転載の許可をいただいております。二次使用はご遠慮下さいますようお願いいたします。

【秋水試作機 横須賀の空技廠前で陸軍が入門阻止】 興味あるエピソードが書かれている。秋水の開発は、機体を海軍と三菱名古屋航空機製作所が担当し、エンジンを陸軍と三菱名古屋発動機研究所が分担して行っていた。しかし、昭和19年12月7日に発生した東南海大地震と連日の米軍航空機による空爆のために、『海軍側技術陣の意向に添うかたちで、整備のととのった横須賀の海軍航空技術廠内で実験を行うこととなり、名古屋から機体やロケットエンジンをトラック8台で横須賀に送った』という。このことが陸軍側に知らされていなかったために、怒った陸軍が武装して航空技術廠の前で、秋水の実験機の搬入を阻止したとのエピソードがある。まさに、「星」と「錨」の抗争史だ。

 【なぜ野辺山か】 ロケット戦闘機「秋水」ははたして特攻機だったのかという疑問を解くヒントがこの本の中にある。農場からグライダー訓練場へと開拓が行われた野辺山高原。当時三重航空隊に所属し、後に野辺山派遣隊長となった二村知行海軍大尉が、「丸山」とよばれる小高い丘陵を中央部に配置した野辺山高原が、グライダーの滑空訓練に最適であると判断したことが、野辺山航空隊基地設置の幕開けとなる。

 【1196人の大部隊】 野辺山基地の正式な名称は「三重航空隊野辺山派遣隊」とはなったが、分遣隊とはいえ全国8航空隊から1196人の選抜搭乗員を集めた大訓練部隊となった。『訓練用として配置されたグライダーは初級グライダー「若草」と中級グライダーの合計50機、すべて三重航空隊から移送したものであった』。

 【桜花か秋水か】 では、派遣隊の訓練目標は何だったのだろうか。搭乗訓練については、必死必殺の新兵器であるとして募集をした航空隊もあった。著書にこう記されている。『平成元年野辺山駅の前に建てられた「予科練の碑」によると野辺山派遣隊の特攻訓練は、「(B29の)迎撃用に開発された新鋭ロケット式局地戦闘機秋水の搭乗員となるため・・・・」とされている。しかし、問題の秋水は当時は未開発で、8月15日の終戦に間に合わなかっただけに、本土決戦を前にして1200人の野辺山の部隊をすべて秋水要員に充てようとしていたかは疑わしい。(---中略---)では8月末に訓練を終了した野辺山の隊員達は、本土決戦に備えてどこに配置されようとしていたのか。これはむしろすでに実戦にも参加した特攻機桜花の搭乗に向けられ、そのための滑空訓練ではなかったかとみるのが妥当であろう』。つまり野辺山海軍航空隊の訓練目標は特攻であったと推察できる。しかし、秋水が特攻機であるかという点については、隊員達の証言からは読み取れていない。


 (写真上) 初代野辺山駅(上左)は流線型であった。この頃から、熊が出没したり、ヤスデによる列車運行への被害があったという。現在は、シーズンになると若者達で賑わう駅舎(上右)。左手前は「三重空野辺山若草会」建立の「予科練の碑」。全国の分遣隊員の名前が記されている。
 (写真右) 牧場が広がる野辺山高原。左の小高い丘が「丸山」。他の訓練候補地としては、霧ヶ峰(部隊規模に比して狭わい)や菅平高原(急斜面が多すぎる)などがあった。
 (写真左) 三重航空隊のグライダー訓練。当時は中学校でもグライダーの実習があり、訓練生(予科練生)たちは、「何を今更・・」と感じていたそうだが、教官達はグライダーを用いた特攻とは何かと真剣に考えはじめていた。
 (写真右) 丸山山頂に立つ「秋水搭乗員訓練の地」の碑。碑前において慰霊祭も行われる。

 書籍紹介のトップに戻ります。