山本五十六記念館と横須賀

2008年8月10日 更新

山本 五十六

1884(明治17)年4月4日生
1943(昭和18)年4月18日没
新潟県長岡出身
日本海軍軍人 海軍大将・元帥

 開戦にはあくまでも反対だった。「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそである。
 しかし、その不戦の意に反し連合連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとった。
写真はWikipediaより

【日独伊三国同盟に反対】

日独伊三国同盟に反対し続けた海軍トリオ、米内、山本、井上らは、海軍中央から追われ、山本は連合艦隊司令長官となる。それから1年後、陸軍との一戦をも覚悟し反対した、日独伊三国同盟は締結された。
 戦争は、国力=生産力の戦いでもあり、日米開戦当時の米国は日本に比べ、艦艇建造能力4倍半、航空機生産力6倍、鉄鋼生産力10倍という比較にならない 力の差が歴然とあった。「だから戦争をしてはならぬ」が山本の持論でもあった。要は、「むやみに戦争をしてならない」、海軍は戦争抑止力としてあり、「我が国の防衛線は、敵国の海岸線にあり」との、米国海軍の戦略に反するものだった。

【山本五十六と横須賀鎮守府関連年表】

1905(明治38)年 5月27日 日本海海戦に参加
 第一戦隊旗艦「日進」に少尉候補生・艦長付として乗組艦長の伝令を務める。
 バルチック艦隊の敵弾が命中して負傷、左手の指2本を失う。
  8月31日 海軍少尉 横須賀鎮守府附
  12月12日 横須賀海兵団附
1914(大正3)年 5月27日 横須賀鎮守府副官兼参謀
1921年(大正10年) 11月12日 ワシントン軍縮会議随員
1929年(昭和4)年 11月12日 ロンドン海軍軍縮会議全権随員
1930(昭和5)年 12月1日 航空本部技術部長
1938(昭和13)年 4月25日 海軍次官兼航空本部長
1939年(昭和14)年 8月30日 連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官
1941(昭和16)年   大西瀧治郎少将に艦上雷撃機を用いた真珠湾攻撃の検討を指示
1943(昭和18)年 4月18日 海軍甲事件
 ブーゲンビル島上空で乗機(一式陸攻、機長・小谷立飛曹長)をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死

【航空機にあわせて空母を改造】

 山本五十六の航空本部技術部長時代(1930〜)のこと。当時開発中の九試艦上戦闘機が要求性能を満たすためには、「赤城」「加賀」の主力空母の飛行甲板の長さが足りないことが明らかになった。山本五十六技術部長は飛行機の設計を見直すのではなくて、「赤城」「加賀」の飛行甲板を50メートル以上延伸させる改良を行い249メートル級の空母誕生となった。


(写真左) 初期の「赤城」は3層飛行甲板、下方は「戦艦長門」  (写真右) 飛行甲板延長後の空母「赤城」
「赤城」「加賀」「サラトガ」「レキシントン」は空母ビッグ4と呼ばれるていた。
写真はWikipediaより

【骨相学と山本五十六】

 本ホームページの主題である、秋水の搭乗員が海軍航空技術廠に到着してすぐ行われた適性検査の中に『感相学』の水野義人氏との面接があった。
 水野氏の判断は当時航空隊のデータと87%の確率で合致していたことから、海軍嘱託にとの意見が多かったが学問的に証明しにくいので海軍航空本部や人事局の合意が得られなかったが、海軍次官当時の山本五十六氏の支持が得られたので、水野嘱託が実現した。
 水野氏はその後航空本部に勤務し、約20万人もの搭乗員の適性検査に携わったという。

【料亭小松の長官部屋】


(写真左) 料亭小松 入り口       (写真右) 「紅葉の間」通称「長官部屋」

 横須賀市米が浜通りの料亭小松。、通称「長官部屋」と呼ばれる部屋がある。料亭小松は、旧海軍の東郷平八郎や山本五十六など歴代の連合艦隊司令長官のほか鎮守府長官に愛され、彼らの墨跡が掲げられていることから、現在でも人気が高い。
 日本海軍の海軍大臣・米内光政、海軍次官・山本五十六、軍務局長・井上成美は日独伊三国軍事同盟に対して、戦争への道につながるという理由で軍事同盟条約締結阻止に全力をあげた。
 これらの将官が、しばしば訪れたのが料亭小松だった。彼らのお気に入りが「紅葉」の間、通称「長官部屋」だった。


住所 〒238−0011 神奈川県横須賀市米が浜通2−15
TEL 046−823−1511


【山本五十六記念館】 (新潟県長岡市)  新潟県長岡市呉服町1丁目−4−1 電話番号:0258-37-8001

 『国大なりといえども戦いを好まば必ず亡ぶ
天下安んずるといえども若し戦わば必ず危うし』

山本五十六が、その書簡の中でしばしば中国の兵書から引用した一節は、国勢の拡大に躍起になる軍部への警句だったのだろうか。

 山本五十六記念館は、しなやかかつ強い心で生きた山本五十六の人間性を21世紀に語り伝えたいという主旨で開館した。


 海軍詰めの記者たちは、山本五十六、米内光政、井上成美(いずれも横須賀と海軍を語るときに欠かせない歴史上の人物である)達を「海軍左派」と位置づけていたようだ。しかし、平沼内閣総辞職に伴い、米内は軍事参議官に、山本は連合艦隊司令長官に転出、井上も海上に出たことから左派トリオの時代は終わり、日本は、戦争への道に突き進んだ。

 記念館では、山本五十六の誕生から、世界をめぐるり平和を求める山本の人間像、そして誠意と慈愛に満ちた山本が発した書簡の数々を見ることが出来る。 なお、記念館から徒歩5分ほどの場所に山本五十六の生家を保存してある山本記念公園がある。


山本記念公園 (左側の木造民家が山本五十六の生家)

長官搭乗機の左翼

連合艦隊司令長官山本五十六ら11名が搭乗した海軍一式攻撃機の左翼部分。この機には山本のほか副官福崎昇、軍医長高田六郎、参謀樋瑞久利雄が同乗し、機長小谷立以下大崎明春、田中実、畑信雄、上野光男、小林春政、山田春雄の乗員がいた。
昭和18年4月18日午前7時30分すぎ、ソロモン諸島バラレ島におもむく途中、アメリカ空軍の戦闘機の襲撃をうけ墜落し、全員が戦死した。
 ちなみに、戦地で戦闘により命を落とした連合艦隊司令長官は山本五十六のみである。

 パプア・ニューギニアとの民間外交も戦後始まった。昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。
その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年〈1989〉年、左翼の里帰りが実現した。


〒940-0056新潟県長岡市呉服町1丁目4−1
TEL0258-37-8001