2011/10/30加筆 九三中練(赤トンボ)による滑空定着訓練

【超空の要塞B29と制空権を失った日本】

 アメリカ軍の「超空の要塞」B29は、それまでの中型爆撃機B17と設計思想は全く異なり、最初から長距離戦略爆撃を想定して設計された。設計・製造はボーイング社、中翼単葉プロペラ4発の大型爆撃機である。爆弾の搭載量は最大9トン。航続距離は4,585km。ニックネームは「超空の要塞(スーパーフォートレス /Superfortress)」 。初出撃は1944年6月である。

 B29による日本本土初空襲は1944(昭和19)年6月15日。75機のB29が中国の成都基地から飛来し北九州の製鉄所地帯を爆撃した。同年7月になると、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン(7月6日陥落)・グアム・テニアンを次々に占領し、日本空襲の基地とした。

 日本の防空体制はひどく脆弱で、高射砲も1万メートルで侵入して来るB29には弾丸が届かないか、終戦直前になって完成した高々度射程(12センチ 高射砲−射程距離14,000メートル)のものも信頼性に問題があったという。
 日本の迎撃戦闘機は、「ゼロ戦」や「隼」はもはや時代遅れとなり、新鋭機「鍾馗」「飛燕」「月光」「屠龍」「雷電」「紫電」なども健闘したが、来襲機が多すぎ、高々度に上がるまでに数十分と時間がかかり、追跡にしても高度1万メートルでは排気タービンを用いたB29のスピードが勝り、日本の迎撃戦闘機は歯が立たなかったというのが当時の状況だった。

 B29による本土空襲は、名古屋の航空工場を中心として18回、東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を行ったが、中でも、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲は「東京大空襲」と呼ばれ、太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。325機のB29による超低空焼夷弾爆撃と折からの突風が重なり被害が拡大。8万人以上(10万人以上とも言われる)が犠牲になり、焼失家屋は約27万8千戸に及び、東京の3分の1以上の面積(約40平方キロメートル)が焼失した。 

【究極の迎撃用ロケット局地戦闘機 『秋水

 このような制空権がほとんど無いに等しい状況下で、B29の本土襲来を予想していた日本軍は、高空性能を重視しし、1万メートルまで3分で到達できるロケット局地戦闘機のずば抜けた上昇力に期待をかけた。
 日独技術交換協定により、メッサーシュミット Me-163型ロケット戦闘機とMe-262型ジェット戦闘機の技術資料の提供を受け、制海権のない中で設計図書などを、U1224(呂号501)潜水艦と伊号第29潜水艦の二経路に分けて日本に輸送することを試みたが、伊号潜水艦は撃沈されてしまった。
 1944年7月19日、日本は全体写真1枚と十枚程度の説明図書だけの不完全な資料により、ロケット局地戦闘機『秋水』の設計を開始し、約2ヶ月間で設計を完了、わずか1年の内に横須賀海軍航空技術敞と三菱重工業の驚異的な開発工程により翌1945年7月7日の横須賀 追浜飛行場での初試験飛行を実現した。

【秋水とB29の外観と性能比較】

秋    水 B 2 9
機名・記号 秋水(海軍J8M1陸軍キ200) 戦略爆撃機B29 Superfortress (発注名XB29 試作はXB15)
形   式 中翼単葉、無尾翼、単発ロケット推進 中翼単葉 プロペラ4発
原動機 薬液ロケット KR10 特呂2号 空冷星型複列18気筒排気タービン過給 2200馬力4基 
機体材料 軽合金 木製主翼尾翼 軽合金 非磁性装甲板
全   長 6.05メートル 30.20メートル
全   幅 9.50メートル 43.10メートル
全   高 2.70メートル 8.50メートル
最大速度 900キロメートル/毎時 574キロメートル/毎時
上昇限度 13,000メートル 10,200メートル
推   力 1,500キログラム
翼面積 17.7平方メートル 161.5平方メートル
自   重 1,505キログラム 32,400キログラム
総 重 量 3,900キログラム 54.400キログラム
翼面荷重 216キログラム/平方メートル 336キログラム/平方メートル
航 続 力 全力で1万メートル上昇後
  600km/hで3分06秒
  900km/hで1分15秒
行動半径は80キロメートル程度
爆弾4.5t搭載時 5,200キロメートル
火気装備 30ミリ機関砲2基(各50発) 遠隔操作による防御火砲
ノルデン爆撃照準機装備
12.7mm機関銃 10基
20mm機関銃 1基
乗   員 1名 11名
初 飛 行 1945(昭和20)年7月7日 試験飛行 1942年9月21日
生産機数 5機 (試験1号機1、三菱2機、
 日本飛行機1機、陸軍柏飛行場1機)
生産計画
 昭和20年3月 155機
 昭和20年9月1300機
 昭和21年3月3600機
 3900機 (ボーイング社、ベル社、マーチン社)

上の表は @ 高田幸夫氏著 国書刊行会「ロケットファイター秋水隊 神風になりそこなった男達」
A 松岡久光氏著  三樹書房「日本初のロケット戦闘機 秋水」
Bフリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』 を参考にさせていただきました。

【大きさを比べてみよう】

 ロケット局地戦闘機『秋水』は1945(昭和20)年7月7日に、横須賀市の夏島町にあった海軍追浜飛行場で1号機が初試験飛行を行ったが、2号機が飛ぶことはなく終戦を迎えた。実際にB29を迎撃することはなかったが、両機の大きさを同縮尺の模型で比べてみると、やはりB29の大きさが際だつ。





@ ピットロード PA01 縮尺1/72 日本海軍局地戦闘機 秋水
A ACADEMY 縮尺1/72 BOEING B-29A SUPERFORTRESS

九三式陸上中間練習機による滑空定着訓練・・・・中練(愛称「赤トンボ」)は秋水の良きパートナー

 九三式陸上中間練習機(九三中練)と秋水とは密接な関係がある。昭和19年8月、朝鮮半島の元山航空基地から「Me163に充つ」の命令の下、海軍横須賀航空隊に配属された16名のパイロットが、慣熟訓練に使用されたのが九三中練であった。同年11月1日、小野二郎大尉他16名により「横須賀海軍航空隊百里原派遣隊」(茨城県小美玉市)が編成され、本格的な秋水操縦訓練が開始された。その内容は@九三中練による滑空定着訓練。A犬塚豊彦大尉が合流、滑空機(当初は光六二型)による滑空定着訓練。B昭和20年1月頃軽滑空機「秋草」や重滑空機による滑空定着訓練。C同年2月5日、百里原派遣隊の秋水パイロット達は「312空」として独立し霞ヶ浦航空隊(霞空)へ移動、本隊を横空に訓練基地を霞空とし、引き続き滑空定着の訓練。DB29を想定し、九三中練の曳航標的へのゼロ戦による射撃訓練。これらの訓練にはいずれも九三中練が用いられており、まさに良きパートナーであったと言える。

【滑空機による定着訓練】 九三中練(天山が曳航することもあった)に曳航された軽滑空機「秋草」。途中で曳航索を離脱し滑空に入る。曳航機と軽滑空機の高度差は5m程度に定められていた。 【射撃訓練】 B29と秋水の速度差を勘案して、速度差のほぼ等しい九三中練の曳航標的(B29役)にたいしてゼロ戦(秋水役)で射撃訓練が行われた。

背面ダイブ攻撃・・・・秋水のB29に対する迎撃方法

 『秋水』への搭乗を予定していた16名の少尉達は、当時『横須賀海軍航空隊百里原派遣隊』・・・・(のちに『秋水隊』と自らを命名)・・・・として日夜、秋水を想定した攻撃・滑空訓練に励んでいた。特に『秋水』は攻撃後にグライダーのように滑空して帰還するユニークな戦闘機であることから、「滑空定着」の訓練は、木製滑空機「秋草」や金属製の重滑空機などを使用し入念に行われた。

 彼らの命題はいかに短い時間で効率よくB29を攻撃できるかであり、上昇後残された6〜7分間の短い時間に戦闘機など相手にしている暇はなく、もしアメリカ軍の援護戦闘機などと遭遇したら、敵の2倍に近いロケット戦闘機の逃げ足をもってこれをかわし、ひたすらB29の迎撃に専念することだった。


 本土に襲来するB29に対する攻撃方法は、当時の海軍航空教範による「対大型機攻撃法」のなかで『対B29ハ前下方攻撃有効』となっていたようだ。*1 
 しかし、「秋水隊」が実戦の研究をする中で、『ハリネズミのような防御砲火を持つB29の編隊に対して、当たり前の攻撃をしていたのでは、こちらの被弾も多くなるので、直上方のB29の死角を突いて、背面ダイブで攻撃する』訓練をすることになったという*2。

 この攻撃方法は、高度差500mで正面から接敵し、敵の前上方で背面飛行に移り、そのまま真っ逆さまに敵の真上から攻撃するものだった。

 背面ダイブからB29前上方へ急降下する秋水
 模型合成 秋水 (ファインモールド製 1/48)
        B29 (Revell製 1/48)
 *1 光人社『海軍航空教範』押尾一彦 野原茂共著
 *2 国書刊行会 ロケットファイター秋水隊
         神風になりそこなった男達 高田幸夫著
         より引用させていただきました。

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