2012年4月1日更新 (プラモデル解説 「景雲」 追加)

 海軍航空技術廠(空技廠)本庁舎 (タイトルの絵図も)

【横須賀航空隊の開隊と海軍航空技術廠】

 明治45年の「海軍航空技術研究委員会」の設置より横須賀市における航空技術発展の歴史が始まりました。大正5年には同委員会が解散し「横須賀航空隊」が設置され、大正15年には、鉈切地区から烏帽子岩・夏島地区の埋め立てが完了し、追浜飛行場は本格的な陸上飛行場としての運用が始まりました。
 大正11〜12年にかけての日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの5大国による「ワシントン軍縮条約」により、戦艦・巡洋艦の保有トン数を制限された日本海軍は、航空兵力の整備に力を入れることとなり、昭和2年に海軍に「航空本部」が設置されました。優秀なパイロットを抱え飛行場も保有する追浜の横須賀航空隊が注目され、昭和7年勅令(海軍航空廠令)により横須賀市浦郷に「海軍航空廠」が開設されたのです。

 航空機の開発は集約型産業であり、さまざまな設備が必要になります。配置図でもわかるように、約44万uにも及ぶ広大な敷地一帯には、着水試験水槽や多数の風洞実験棟など最先端の施設が配置され、工員養成所(現関東学院大学周辺)や宿舎もあり34,000人にもおよぶ人々が勤務していたといわれています。

 その後、昭和14年に「海軍航空技術廠(空技廠)」へと組織改編され、昭和16年4月1日に横浜市金沢区(釜利谷)に「支廠」が開設され、兵器・光学機・計測器関連の開発が行われました。終戦直前の昭和20年2月15日には「第一海軍技術廠(一技廠)」と改称されています。戦後、陸海軍の解体に伴い空技廠も廃止され、技術者達は全国に散り戦後の日本の発展に技術面で貢献しています。


○ 空技廠の所在地と建物配置

○ 空技廠の生い立ちについて(年表)

○  空技廠で開発・改良された航空機 (プラモデル解説)

○ 現代に活きる空技廠の技術


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