1945(昭和20)年7月7日 午後4時55分
    日本初の有人ロケット戦闘機は横須賀の空に飛び立った】

 「秋水」とは、終戦が押し迫った1945(昭和20)年7月7日、横須賀市夏島の海軍航空隊追浜陸上飛行場で試作第一号機の試験飛行が行われた、ロケットを推進力に用いた局地(迎撃用)戦闘機です。

  第2次世界大戦末期、1944(昭和19)年6月にマリアナ沖海戦で、日本海軍は空母・戦艦他大量の航空機を失いました。さらに同年7月に日本軍国防線の最前線とされていたサイパン島が、アメリカなどの連合軍により陥落しました。このことは日本が制空・制海権のほとんどを失い、日本の国土全体がアメリカの「超空の要塞B−29」の爆撃可能圏内に入ってしまったことを意味しています。
 「B−29」は高度1万メートルで進入してきますが、当時の日本の迎撃戦闘機はこの高度に達するまでに数十分の時間を要し、その間に「B−29」は悠々と任務を果たし帰還してしまうのです。

 この危機感から、1944(昭和19)年8月7日、追浜の海軍航空技術敞(現在の浦郷町5丁目)において、「官民合同研究会」が開かれて、日本の海軍と陸軍は協力して、機体は海軍、動力が陸軍と担当を決め、試作会社に三菱重工を選び、次のような仕様の局地戦闘機を急遽開発することで合意しました。軍側の要求は同じ年の12月半ばに試作一号機を完成させるというものでした。

全 備 重 量  4,000s
翼     幅  9.3m(後にロケット燃料格納と機関砲の問題で9.5m)
上 昇 性 能  高度1万4千mまで3分45秒
滞 空 時 間  6分30秒
最 高 速 度  時速900q
離陸滑空距離 800m 離陸後車輪を捨て滑空にて帰還着陸はソリ
翼 の 仕 様  主翼・垂直尾翼は木製 水平尾翼無し

 【ロケット推進〜滑空帰還
   搭乗員をかけがいのない資産として生還させる発想】


 ガソリン・エンジンと異なり、燃料と酸化剤を反応させて推力を得るロケット・エンジンは超高空でも性能は良く、一万メートルまでの上昇時間3分30秒、最大速度毎時900qという驚異的な性能は、本土空襲に飛来する米国の『超空の要塞』B29に対する迎撃用として開発されました。
 「秋水」が傑出しているのは、『生還』する攻撃機という点にあります。終戦直前敗色濃厚な日本国は、多くの若い命を『特攻』という悲壮な死出の旅に捧げました。しかし、「秋水」は急上昇後に戦闘で燃料を使い果たし、グライダーのように滑空して帰還するということを念頭に置いたユニークな発想の戦闘機だったのです。

上の写真は、三菱重工航空宇宙システム製作所資料室に復元展示されている「秋水」


【ドイツから決死の設計図輸送】

 「秋水」の手本となったロケット戦闘機はドイツのメッサーシュミットMe163でした。当時、日本とドイツ間で技術交換協定が締結されていました。大半はドイツが技術水準が高かったのですが、日本も酸素魚雷(航跡が視認困難)の技術などをドイツに提供したようです。この技術交換協定に基づき、ドイツ駐在武官の巖谷英一技術中佐と吉川春夫技術中佐は、Me−163ロケット戦闘機の技術資料とMe−262ターボジェット戦闘機の技術資料の譲渡を実現しました。


上写真 「秋水」の手本となったMe−163ロケット戦闘機

 当時、制空権も制海権も連合国側に握られている中で、確実に日本に技術資料を届けるためには、長時間の潜行航行が可能な潜水艦を用いる以外にないという結論に達しました。そこで資料を二セット用意し二隻の潜水艦で出発日をずらせて運搬することになりました。
 第一便はドイツより製造見本として日本に贈与されていた「U−1224潜水艦(日本名呂号第501潜水艦)」に吉川春夫技術中佐が搭乗して、1944年3月31日ドイツ キール軍港を出港しましたが、5月16日連合軍の爆雷攻撃により消息を絶ってしまいました。
 第二便は「伊号第29潜水艦」に巖谷英一技術中佐が搭乗し、1944年4月16日北フランスのロリアン潜水艦基地を出港、7月14日にシンガポールに到着しました。巖谷中佐はここで零式輸送機に乗り継ぎ7月19日に羽田に到着しました。潜行時間は600時間を超える過酷な行程でした。



写真(上) 3月31日、技術資料を乗せキール軍港を出港するU−1224
(日本名呂号第501)潜水艦。日付から『最期の航海』を写したものと考えられる。

写真(上) 4月16日、同じく巖谷技術中佐が技術資料を携えロリアンを出港する伊号第29潜水艦
 

*上記 2葉の潜水艦の写真は、海人社発行 世界の艦船増刊第37集
『日本潜水艦史』より掲載のご承諾を頂きました。


 【秋水発進そしてエンジン停止】

 「秋水」の試作第1号機の試験飛行は、1945(昭和20)年7月7日、午後2時と決定しました。この日天気は快晴、オレンジ色の試験機色に塗装された「秋水」試作第1号機は、海軍追浜飛行場の滑走路で機首を西に向けて駐機していました。厚木の燃料庫から運搬されてきたロケット推進燃料(過酸化水素水水溶液とヒドラジン水溶液を混合燃焼させる)を充填した後にエンジンの始動試験を行いましたが何回か不調に終わった後、突然にエンジンが始動、推力も順調に上がっていきました。

 午後4時を過ぎ、テストパイロットである犬塚豊彦大尉が操縦席に搭乗、エンジン点火。推力を1段・2段と上げていき午後4時55分に車止めがはずされ、轟音とともに「秋水」試作第一号機は予定通り320mを滑走し、ついに離陸に成功しました。高度10mで車輪を落とし尾輪も収納、その後45度の急角度での力強い上昇が約16秒間続きました。


写真(上) 横須賀航空隊追浜飛行場で発進直前の「秋水」 
写真提供 三菱重工航空宇宙システム製作所資料室
 発進直前、ロケット燃料薬液の過酸化水素水が路面不純物に触れての爆発を防ぐため滑走路への放水を行っている。
 

 しかし、高度約350m付近で突然エンジンが停止。高度500m程で水平飛行になり、燃料の非常放出を行った後に、滑空状態で右旋回して飛行場に帰還する姿勢をとりました。機体の沈下速度が速く施設部倉庫の屋根に接触し墜落。重傷を負った犬塚大尉は病院に収容されましたが翌日絶命しました。

 エンジン停止の原因は、薬液取り出し口の不備と燃料の過少積載だったという結論に至りました。

 (*ここまでの文書は松岡久光氏著作 「日本初のロケット戦闘機秋水」三樹書房刊 を参考にさせていただきました。なお文責は当サイトの管理者にあります。)

 また、試験飛行の様子を、当時、海軍横須賀航隊医務科の外科室長の職にあった神田恭一氏は著書「横須賀海軍航空隊始末記」(光人社NF文庫)の中で次のように記述されている。

 『三尺の秋水日本刀のごとく、海軍航空の研究の精華ともいうべき新世紀の航空機「秋水」は日本海軍最後の切り札であった。この「秋水」を主力とする第三一二航空隊(通称「秋水隊」)は昭和20年春横須賀航空隊内に編成された。秋水部隊の司令に柴田武雄大佐、副長に国定兼雄中佐、軍医には横須賀航空隊医務科付の遠藤始軍医少佐が就任した。−−−中略−−−−いよいよ実験開始の時刻が迫ってきた。私は救急車のエンジンをかけ最高調を保つように運転員に指示した。−−−中略−−−飛ぶぞ、飛ぶぞ! 秋水は45度の角度をもって斜めに東京湾の上空をさしていった。続いて一段と高いロケット噴射の轟音が空気を裂いて飛行場をびりびりとふるわせる。秋水は離陸に成功した。一斉に歓声と大きな拍手がわき起こり、水平飛行に移ると再び歓声の波が起こった。−−−中略−−−滑空している「秋水」は高度と速力がだいぶ落ちてきた。飛行場の南西上空で右に旋回すると右翼が大きく傾いた。秋水は浮力を失ったのである。パイロットの犬塚大尉の必死の修正作業もむなしく「秋水」は右翼を下げたまま、航空隊の拡張工事中の労務者用宿舎の屋根に激突し墜落した。幸いトタン葺きバラックの建物だったのでそれが緩衝材になって激突機体飛散の惨事はまぬがれた。犬塚大尉は直ちに地下手術室に収容されたがきわめて重篤な状態であった。』  

 こうして、1945(昭和20)年7月7日、日本初の有人ロケット局地戦闘機「秋水」試作一号機の試験飛行は、離陸に成功したものの、燃料供給の不備により搭乗員を失うという結果に終わりました。そして、8月5日に予定されていた第2回目の試験飛行が実現することはなく終戦を迎えたのです。


写真(上) 「秋水」への搭乗訓練中の犬塚豊彦大尉
写真出典:神田恭一氏著書「横須賀海軍航空隊始末記」(光人社NF文庫)


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